いつもの場所に。

和阪直之

 先生はいつもの場所で、いつも原稿と向き合っていました。
旅先のホテルのロビー、街角のカフェ、行きつけのバー、空港の待合室。
ふと気が付くと、お気に入りの場所で、ひとり筆を走らせていました。
 取材のため、スペイン、フランス、イタリアと美術館を巡る旅を30年ちかくご一緒させて
いただきましたが、その姿は一度も変わることがありませんでした。
 ヨーロッパへの取材旅行の時、必ずフランス・パリを起点にされ、まずはシャルル・ド・
ゴール空港に降り立ちました。そしてパリの定宿ホテルにチェックインすると、そのまま
部屋に入られました。すべてはそこからはじまりました。
 当時パリの定宿はホテル・ド・ヴィニーでした。先生お気に入りのホテル・マネージャー
のセシルさんが切り盛りしていて、とても温かくもてなしてくれる小さくて素敵なホテル
でした(セシルさんが新しい経営者とぶつかり、ホテル・ダニエルに移ると、先生もそこに定
宿を変えられました)。
 日が暮れる頃、ロビーで待ち合わせて、向かうのは決まって馴染みの和食屋さんか韓国料
理屋さん。名の知れたフランス料理の店に行くことは一度もありませんでした。
 それは先生のひとつのルールのようでした。
 久しぶりの馴染みの店でご主人やお女将さんと会話をしながら、食事とお酒を愉しむと、
ホテルに戻り、必ずバーの決まった席に座り、お気に入りのお酒を飲まれました。
 翌日のスケジュールの打ち合わせがひと通り終わると、日本からホテルに届いたFAXに目
を通し、赤字を入れ、さらに書きかけの原稿に手を入れました。
 驚異的な数の雑誌や小説誌の連載を抱えて、いつも締め切りに追われていた先生は、四六
時中、原稿のことを考えていたように見えました。食事中も、バーにいる時も、ふと会話が
途切れると、じっと目をつぶり、何かに想いを馳せていました。突然、コースターの裏にバ
ーテンダーさんの似顔絵を描くこともありましたが。
 そして突然、すくっと席を立ち、ご自分の部屋に戻られました。
 先生は世界中を旅しながら、その街その街で、特別な時間を共有できる人と場所をいつも
探し続けていたようにも思えました。
 それは長年定宿にしていた東京の山の上ホテルでも同じでした。
 どこにいても先生は旅の途中だったのかもしれません。
 いまも、いつもの場所に、いつものように、ふと先生が現れるような気がしてなりません。
 先生、かけがえのない時間をありがとうございました。

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『旅だから出逢えた言葉』
『旅行鞄のガラクタ』

Profile

和阪直之

小学館 編集者
『旅だから出逢えた言葉』シリーズ、『旅行鞄のガラクタ』ほか多数の編集を担う。

伊集院静 / 1950年山口県防府市生まれ。立教大学文学部卒業。
「皐月」で作家デビュー。その後『乳房』で吉川英治文学新人賞、『受け月』で直木賞、『機関車先生』で柴田錬三郎賞、『ごろごろ』で吉川英治文学賞、『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』で司馬遼太郎賞受賞。2016年紫綬褒章受章。2021年野間出版文化賞受賞。『なぎさホテル』『美の旅人』『旅だから出逢えた言葉』シリーズ、『旅行鞄のガラクタ』、『君といた時間 大人の流儀Special』『哀しみに寄り添う』など著作多数。

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