「どこに逃げても“わたし”でしかなかった」

クラシック音楽プロデューサー・文筆家

渋谷ゆう子

Wherever I Was

 10日間も急に仕事が空いた。その知らせを受けてすぐ、私はパリ行きのチケットを買った。逃げるためだった。社会的に必要な顔から。家庭で必要とされる顔からも。何もかもがうんざりだった。だれも私のことを知らない場所に、そしてろくに言葉も分からないところに行こう。今の自分から逃げるために。

 秋の空気が漂い始めたマレ地区のホテルの小さな窓に朝日がのぞく。マウンテンパーカを羽織り、2ブロック先の小さなカフェまで歩く。ボンジュール、と店主は大して興味もなさそうにこちらを一瞥して言う。クロワッサンとカフェ・オ・レ。人差し指を使って注文する。次に外を指差して、持ち帰りたいという意思を伝える。最小限の会話で事足りる希薄な関係性に安堵する。ここでの私は言葉もろくに分からない、匿名の誰かなのだ。

 セーヌ河岸の適当なベンチに座り、温かくて適度に濃いカフェ・オ・レをすする。大きな口を開けてクロワッサンをかじる。サクッという音と一緒にパンくずが散らばる。ランニングをする人や風景画を描く人。誰も私に気を払わない。小さな野鳥が払い落としたパンくずに寄ってくるだけだ。静かで、穏やかな私の足元に。

 その後は左岸に渡ってカルチェラタンを散策する。小さな書店を覗いたり、気が向いたレストランで軽いランチをとったりして気ままに過ごす。時には美術館のチケットを買って、何時間も絵を眺める。音楽の聞こえた教会では席について耳をすます。そうしてパリの街をあちこち歩いたら、夕方にはスーパーマーケットでいくつかのデリと手頃な赤ワインを買った。ホテルの部屋で日本から持ってきた本を読みながら、自分のためだけの夕食をゆっくりと味わう。小説は4冊目に入ろうとしていた。

 7日目の朝、カフェの店主は私の顔を見るなり、何も聞かずにクロワッサンをテイクアウトの紙に包みながら何かを尋ねてきた。私が首をすくめると、彼は英語で「近くに住んでいるのか」と聞き直してきた。その笑顔を見て、私は突然泣きたくなった。涙が溢れるのを必死でこらえて小さく首を横に振って言った。「明後日、日本に帰るの。」

 私は私が誰なのかを、本当は誰かにわかって欲しかったのだ。私は気づいて欲しかった。私が “わたし” であることを。ここに私がいることを。そして気づくべきだったのだ。どこにいても、私は私でしかないのだと。
 そして私は、はじめて名乗った。秋の風が少し深まったパリで。

X @yukoshibuya92

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Profile

渋谷ゆう子

株式会社ノモス代表取締役・音楽プロデューサー。文筆家。日本オーディオ協会『音のリファレンスシリーズや360RealtyAudio開発支援などで主にクラシック音楽制作を行う。また音楽雑誌やオーディオメディア等での連載執筆多数。著書に「ウィーン・フィルの哲学」(NHK出版)、「名曲の裏側 クラシック音楽家のヤバすぎる人生 」(ポプラ社)、「生活はクラシック音楽でできている」(笠間書院)がある。

Yuko Shibuya is a Tokyo-based classical music producer, author, and Audio Stylist®︎. Yuko holds a B.A. in Japanese Traditional Calligraphy from Otsuma Women’s University. In 2011, she established her own company, NOMOS Inc., and has worked as its CEO and a producer. She also wrote three books as an author: Vienna Philharmonic Philosophy,Behind the Great Composition, and Our Life Is Made of Classical Music. She has written several serializations for classical music magazines and websites as well.

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