CMJKの東京サイバーパンク回顧録 その① 新宿歌舞伎町

ミュージシャン・作曲家・編曲家・音楽プロデューサー・DJ

CMJK

サイバーパンクとは現在は人気ゲームやファッションのことを指すようだが元々は1980年作家ブルース・ベスキーによって書かれた「サイバーパンク」という小説が大元である。

その後1984年ウィリアム・ギブスン作のSF小説「ニューロマンサー」や同じく80年代に公開された映画「ブレードランナー」「ターミネーター」「未来世紀ブラジル」等々の作品によってサイバーパンクの世界観は確立された。

その頃ぼくは宮城県仙台市の高校生で、当時はレンタルビデオが大全盛で前出ブレードランナー等を何度見返したかわからないくらい何度も何度も観た。ブレードランナーにおける新宿歌舞伎町的な風景は監督リドリー・スコットと美術監督シド・ミードによる共通したアイデアで、初期プロット時のイメージボードにはすでに漢字が書かれたネオン、巨大電子看板に写し出される和装の女性等の表現があったようだ。

19歳の頃バンド全員で仙台から上京した。知り合いもツテもなかったのでデモテープを持っていってライブハウスの昼の部のオーディションに出させてもらったりと地道に活動を始めた。

当時はロックをやるなら中央線、特に高円寺に住め!という風潮があって何も知らない田舎の青年的には言われるがまま高円寺に住みたかったが希望の家賃額より高く、隣の阿佐ヶ谷、そのまた隣の荻窪と物件を見て回って安くてそこそこ綺麗な荻窪のアパートに住むことにした。

バイトをしないと食べていけない。当時はネットもスマホも無いのでバイトを探すなら「求人誌」という専門の雑誌で探すのがデフォルトだった。新宿歌舞伎町のさくら通りというストリートの入り口にある24時間営業の喫茶レストランはシフトの組み方も自由度が高く、夜勤をすれば時給も良かったし賄いも出るので、バンド活動をしながらバイトをするならここだ!と履歴書を持ってお店に向かった。

高校生の頃一人で東京に来たことがあった。最初はThe Cure、その次はCocteaw Twinsというイギリスのバンドの来日公演を観る為。両方とも会場は中野サンプラザで、サンプラザからほど近いホテルに1泊して西新宿でレコードを漁って仙台に帰るだけだったのでぼくが知っている東京は中野と西新宿、東北新幹線が東京駅まで乗り入れる以前は東北の玄関と言われていた上野だけだった。

そういうわけだったので初めて歌舞伎町を歩いた時は衝撃だった。
ブレードランナーの世界が本当に目の前にあるのだ。

24時間営業の喫茶レストランで調理補助としてバイト出来ることになったぼくは毎日自分がブレードランナーの主人公デッカードになったつもりでバイト先に向かった。

今は未成年の溜まり場としてちょっとイメージが良くなかったりする歌舞伎町だが、外国から来たサイバーパンク好きの方達なんかはぼくが昔受けたのと同じ衝撃を今日も明日もこれからも受け続けるのだろう。

さくら通り入り口にあったかつてのぼくのバイト先は今は牛丼屋さんになっていた。

多くの外国人の方々がここでゴジラの頭部を撮影していた。

新ランドマーク、東急歌舞伎町タワー。

Profile

CMJK

1967 年 8 月 21 日 宮城県仙台市出身
ミュージシャン、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、DJ。
1991 年に電気グルーヴのメンバーとしてデビュー。
その後 Cutemen、CONFUSION といったユニットで活躍し、1990 年代の日本のテクノ、クラブシーン黎明期の礎の一翼を担った。さらに浜崎あゆみ、DREAMS COME TRUE、SMAP、Kis-My-Ft2、V6、私立恵比寿中学、アンジュルム、Juice=Juice、など多数のアーティストのサウンドプロデュースを手がける。
2016 年にはファッションブランド「BEAMS」創業 40 周年を記念したプロジェクトとして、40 年間の東京のカルチャーをファションと音楽という 2 つの視点から振り返るミュージックビデオ「TOKYO CULTURE STORY 今夜はブギー・バック(smooth rap)」のサウンドデザインと編曲を担当し、2017 57th ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSにてゴールドを受賞した。
そのほか映画、ドラマ、アニメ、CM 音楽、ファッションショーの音楽の制作等々、多岐にわたって活動中。

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